◆私の尊敬する人・・藤原ミエさん◆
こんにちは。
セラピューティストアカデミーRUBYZの
輝く人を応援する ヤクママこと夜久 ルミ子です。
今日は、私が尊敬し、この人の高みに登って死にたい!と思っている人をご紹介いたします。
それは、藤原ミエさん。岩手のおばあちゃんで、お会いしたことはありません。
私が藤原ミエさんを知ったのは、1993年3月14日の読売新聞の
「ひゅーまん探訪」という記事でした。
とても、私には到達できない心を持った方です。
でもこの方の存在を知り、私にもまだまだ出来ることが沢山ある!
と思ったのです。私も少しでも、藤原ミエさんに近づきたいと日々思っています。
しかし、凡人の悲しさ。どうしても、私利私欲に走りがちになる毎日です。・・・・(笑)
この全文をここにご紹介いたします。
少しでも皆様のお役に立てますと嬉しいです!
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<記事全文>
声出る限り立ち続ける
おはようさん
目は悪いけれど・・
「おはようさーん」「転ばねえように行くんだよ」
午前七時半。朝の寒気の中を、しわがれ気味の甲高い声が響き渡る。
盛岡市内に住む藤原ミエさん(83)は毎朝、市立太田東小学校の校門に立ち、
登校してくる子供達や先生たちに声をかけている。もう四年も続いている。
老人性白内障のため、両目はほとんど見えない。
約十五分ほど離れた自宅から白いつえをついて一人で歩いてくるが、
共働きで送り迎え出来ない娘夫婦に代わって、近所の人が付き添うこともある。
「おれが行かないと、子供たちがどうしたのかと、心配する。雨や雪がひどくない限り行くよ」
ぼんやりとしか見えないため、だれもいない場所に向かってあいさつし、お辞儀を繰り返すこともある。
だが、「大きな声を出すのは気持ちいいし、健康にもいい」と気にしない。
そんなミエさんに「おはよう」とあいさつを返したり、通りがけに手を握っていったりする子供もいる。
「小さい子供ほどよくあいさつする。大きくなるほど、黙って通り過ぎていくようだねえ」
ぞうきん縫い30年
毎朝、小学校に通うが、自身は学校に入ったことがない。家が貧乏で、借金返済のために十三歳から近くの製紙工場で働かされたという。
朝四時にラッパで起こされ、まゆから糸をつむぐ毎日。二十五歳で辞め、大工の夫と結婚した。夫は無類の酒好きで、家計には最後まで苦労した。
子供は八人育てた。長年、生活扶助を受けた恩返しにと、孫が生まれた約三十年前からぞうきんを縫い始めた。近所を回って残りぎれをもらい、神社の草取りをして得た金で糸を買う。これまでに縫ったぞうきんは約二千枚。いらなくなった旅館のシーツで、おしめを二千五百枚ほど縫って老人ホームに届けた。車が多くて危ないからと、自分の小遣いで黄色い小旗を買い、学校近くの道路に置かせてもらったこともある。
「人生の歌」口ずさみ
長年続けたぞうきん縫いやおしめ縫いも、目が見えなくなった今は出来ない。だが、それで活動をやめるミエさんではない。「針は持てなくなっても、声は出せる」。
そこで思いついたのが「おはようさん」。三代前の校長に、「やらせて欲しい」と頼んだ。
「大きな声を出す子に悪い子はいないというのがおばあちゃんの考え方。お陰で子供もよくあいさつします。いくつになっても社会に役立とうとするあのパワーには頭がさがります」と、今の佐々木友悦校長は話す。
「おはようさん」から家に帰る道すがら、よく歌を歌う。「人生の歌」。自分で作った。
一度限りの人生だ 大事にしようよ この命 明るく楽しく生きようよ
悲しい時には共に泣き うれしい時には分け合って 明るくいこうよ人生は
明るくいこうよ人生は
毎年、運動会や卒業式に招かれる。今年の卒業式は十九日。七十六人が巣立つのを、
今からミエさんは楽しみにしている。
「いつまで出来るかなあと考える時もある。でも、出来る限り続けたいと思っているんだよ」
1993年(平成5年)3月14日(日曜日)読売新聞より